レクチャー当日、及びコンサート当日希望者に配布しましたレクチャー資料の本文を掲載します。まだ、参照の部分と付録の部分が完成しておりません。しばらくお待ちください。


BACH FEST 2000 TOKIO

Gesprächskonyert zu Bachs 250. Todestag

J.S.バッハ没後250年記念・
 横浜合唱協会創立30周年記念
  レクチャーコンサート
   2000年8月5日(土)

【目次】
I.バッハは受難曲を何曲作曲したか
 1.伝承
 2.現存する受難曲とそれ以外の受難曲
 3.バッハの受難曲演奏
II.バッハの受難曲の構成
 1.福音書の受難章
 2.マドリガル風の自由詩
 3.コラール
III.J.S.バッハのマルコ受難曲
 1.テクストの持つ特徴
 2.失われた受難曲音楽復元の問題
IV.フォルカー・ブロイティガムによる補作(1981)
 1.<J.S.バッハのマルコ受難曲>部分
 2.<福音書の音楽>の部分
V.<哀悼頌歌>Trauerode BWV198
 1.ザクセン選帝候妃の死
 2.哀悼頌歌の成立
 3.ゴットシェトの詩とバッハのテクスト処理

レクチャーコンサートへの導入部

 −ブロイティガム作品について

 ブロイティガム作品の標題:
  <J.S.バッハのマルコ受難曲>に付けた<福音書の音楽>

1.J.S.バッハのマルコ受難曲

 (1)バッハはマタイ、ヨハネ以外にも受難曲を作曲したか?

−<故人略伝>(1754年)の記述によれば5曲

 (2)マルコ受難曲の消息

・楽譜は全く消滅した。
・印刷テクスト(歌詞台本)が現存する。
 詩人ピカンダー(本名ヘンリーツィ)作、<マルコ受難曲のテクスト,1731年聖金曜日用>。福音書部分(マルコ14,15章)、自由詩及びコラールすべてを含む。(ヘンリーツィはバッハのために<マタイ受難曲>のテクストも書いた。)
・楽譜も同時代の記録もないため、バッハがこのテクストに作曲したことを直接証明することはできない。
・しかしバッハの職務などから、この受難曲が作曲されたことは間接的に明らかであると考えられている。(作品番号 BWV247)

 (3)形式はオラトリオ型受難曲

・第1層−福音書による受難物語。福音史家、イエス、その他(人物及び合唱)にバッハはレツィタティーフや合唱を書いた。
・第2層−詩人が書いた<受難詩>。ピカンダーの創作はこの部分。バッハは伴奏付きレツィタティーフ、アリア、また合唱を作曲。
・第3層−コラール(ルター教会の賛美歌)、バッハは多くの場合単純な4世の和声付けにて作曲。

 (4)<マルコ受難曲>の第2層は合唱2、アリア6曲をもつ。
   この部分は他の作品からの転用(パロディ)が多いと考えられていた。

原曲の推定(発見)
 合唱2曲とアリア3曲−<哀悼頌歌>(カンタータBWV198)から(ルスト)
 アリア1曲−カンタータBWV54から(スメント)
 コラール16曲に関する研究(スメント)
  これらは文献学的な研究結果である。

 (5)演奏のための復元版

・第2層の推定された原曲と第3層コラールの推定に基づいて、演奏を目的として編集した版。形を整えるための妥協が行われることもやむをえない。 代表例:ディートハルト・ヘルマン版(1964年)内容
・ブロイティガムの<J.S.バッハのマルコ受難曲>は、このヘルマン版を用いている。
・復元版の中には、第1層にまで他のバッハ作品を取り入れたものもある(例:タイル・トン・コープマンなどの版)。文献学的手続きをふまえた原曲の推定を、資料の制約を受ける歴史学書の論文にたとえれば、いささか恣意的とも思える復元版の編集者は、資料を使用しながらも不明の部分を想像力によって補う歴史小説家と言えるであろう。

2.ブロイティガムが補作した福音書の音楽

・第1層を現代の技法で作曲した音楽。
・現代のドイツ語訳マルコ福音書を使用し、第2,第3層の挿入箇所はすべてピカンダーのテクストに従う。細部の描写を省略して簡潔に編集したテクストに作曲してある。ちなみに言葉の数はピカンダー約2340語に対し、ブロイティガム1985語である。
・<バッハ様式>を模倣して作曲することにこの作曲家は同意しない。12音的な音列を用いると共に、福音史家(伝統的にテノール)がグレゴリオ聖歌に用いられてPsalmton(詩編朗唱調)で物語り、また緊迫した場面にはショッキングな音程や音型が現れて情況を説明する。オルガンと打楽器の伴奏がこれを助長する。イエスその他の人物、合唱による群衆も多くはドラマティックな表現をもつ。しかしバッハの音楽との接続部分には調性が考慮される。このように音楽的に多彩である。

3.バロック音楽と現代の音楽の対比と融合

  作曲家ブロイティガムはこの補作において幾つかの対比を試みる:
    音楽:第2及び第3層のバロック音楽−−−第1層の現代音楽
    言葉:ピカンダー(バッハ時代)のドイツ語−−−現代訳聖書のドイツ語
    空間の配置:ソロ、合唱とオーケストラ−−−オルガンと打楽器を分離

 このような手段を用いて20世紀後半のライプツィヒの音楽家が伝統と現代を対比させながらも2種類の音楽の融合をはかっているように思われる。

J.S.バッハ「マルコ受難曲」の復元と補作

栗原 浩

I.バッハは受難曲を何曲作曲したか

1. 伝承

(1) バッハの死後4年目、1754年に発表された<故人略伝>Nekrolog(著者はバッハの次男カール・フィーリプ・エマーヌエルと、弟子であったJ.F.アグリーコラ)中の未出版作品の項目に「5曲の受難曲、うち1曲は二重合唱のためのもの」という記述がある。このようにバッハに直接関係のあった著者たちによって、バッハの受難曲は5曲あったと伝えられている。

(2)音楽学者J.N.フォルケルも最初のバッハ伝として有名な著書<J.Sバッハの生涯、芸術および芸術作品について>(1802)で、同様の記述を行った。フォルケルはバッハの2人の息子、ヴィルヘルム・フリーデマンやカール・フィリープ・エマーヌエル(以下C.P.E.バッハと書く)と親交を持っていた。J.S.バッハと関係の深かったこれらの人々の証言は信頼するに足る資料と考えられている。

2. 現存する受難曲とそれ以外の受難曲

(1) 我々に伝えられた受難曲の音楽は、周知のとおりマタイおよびヨハネ(それぞれBWV244および245)の2曲だけである。楽譜は共にC.P.E.バッハを経由して伝えられた。この2曲がバッハの作品の中でも最高級の傑作であるため、残りの3曲についても長い間研究が続けられてきた。しかし残念ながら新しい作品そのものは発見されていない。概略は以下のとおりである。

(2) マルコ受難曲
i)この作品の楽譜は全く失われ、現在に伝わっていない。一方、バッハのためにカンタータや受難曲のテクストを書いたことで知られているピカンダー(本名クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ)は、数多くの詩集を印刷出版している。その中の1冊、<まじめな詩、諧謔的また風刺的な詩>第3部“Ernst-Schertzhaffte und Satyrische Gedichte". Theil 3 (1732) の中で、<マルコ福音書による受難曲のテクスト 1731年聖金曜日用>“Text zur Passions-Music nach dem Evangelisten Marco am Char-Freytage 1731"を発表した。(P.**参照)
この詩集の再版(1737年)にも<1731>はそのまま印刷されている由(D.ヘルマン編,マルコ受難曲復元版 1964,序文による)。因みに<マタイ受難曲>のテクストは同名詩集の第2部(1729)に掲載されている。
ii)バッハがこのテクストの作曲者であることを直接証明することはできない。しかしバッハのライプツィヒにおける職務、ピカンダーとの関係、また意図的なパロディー関係(後述参照)に基づいて、この受難曲が彼によって作曲されて1731年に演奏されたことが間接的に明らかになる、と考えられている。このためW.シュミーダーは、彼のバッハ作品目録(1950)の中でこの作品にBWV247の番号を与えた。
ライプツィヒの楽譜商ブライトコプの筆写譜販売カタログ(1764年)に記載された作者不詳、同一タイトルの<マルコによる受難カンタータ>は、作品規模からみてバッハの作品ではないと考えられている。

(3) ルカ受難曲
 J.S.バッハとC.P.E.バッハ父子が書いた筆写スコアが存在する。しかし音楽の内容から判断するとバッハの作品とは言えない。また作曲者もわかっていない。それにもかかわらず、この作品は旧バッハ全集に加えられ(BG45(2),1898年)、またBWV246の番号が与えられている。だが、上述<故人略伝>の著者たちがこれをJ.S.バッハの作品と考えていなかったとすれば、不明の受難曲はさらに2曲存在することになる。

(4) ヴァイマールの受難曲
 ヨハネ受難曲(1724年)以前にヴァイマールで作曲された受難曲があったかどうか、という推定が行われている。
 C.P.E.バッハの<遺産目録>(1790年)に記載された<マタイによる受難曲,不完全(或は未完成)>"Eine Passion nach dem Matthaeus, incomplet"から、単一合唱のマタイ受難曲も失われた受難曲に関する手がかりを与えられるかもしれない。C.L.ヒルゲンフェルトの「・・・残る3曲のうちの1曲をバッハは1717年に作曲したのであろう。恐らく失われたマタイ受難曲と思われる」という言葉もしばしば引用されるが、その根拠が明らかにされていないため、手がかりになりにくい。(Carl Ludwig Hilgenfeld : Johann Sebastian Bach's Leben, Wirken und Werke, 1850/1965, S.114)

3. バッハの受難曲演奏

 ライプツィヒの教会世話係(Custos=Kuester)J.C.ロストが遺した記録から1723~38年に何れの教会で受難曲が演奏されたかは判明する。しかしバッハが何年にどの曲を演奏したかを伝える資料は存在しない。このような状況にもかかわらず、現在ではバッハ研究の成果に基いて次のような年表を組み立てることは可能である。但し推定根拠となった資料の性質によって、確実さの程度に差が生じていることを御認識いただきたい。

年/聖金曜日

受難曲

教会

*)出典
1724.04.07 ヨハネ(初稿) ニコライ (1)(2)
1725.03.30 ヨハネ(第2稿) トマス (1)(2)
1726.04.19 (ラインハルト・カイザー:マルコ) ニコライ (1)(2)
1727.04.11 マタイ(初期稿) トマス (1)(2)(3)
1728.03.26 (作者・作品名不詳) ニコライ (1)
1729.04.15 マタイ トマス (1)(2)
1730.04.07 多分 ルカ(作者不詳) ニコライ (1)(2)(4)
1731.03.23 マルコ トマス (1)(2)(4)
1732.04.11 恐らく ヨハネ(第3稿) ニコライ (1)(5)
1733. (国王逝去のための国喪により中止)   (1)
1734.04.23 (作者・作品名不詳) トマス (1)
1735.04.08 多分 ルカ(作者不詳) ニコライ (1)(2)
1736.03.30 マタイ(改作稿)(オルガン2台使用) トマス (1)(2)(5)
1737.04.19 (作者・作品名不詳) ニコライ (1)
1738.04.04 (作者・作品名不詳) トマス (1)
1739.03. ヨハネ(自筆スコアの準備、中断)   (5)(6)
1742頃 マタイ   (5)
1743−46頃 マタイ   (5)
ルカ(作者不詳)のコラール1曲への加筆   (5)
1749.04.04 ヨハネ   (5)

*)出典
(1) Johann Christoph Rost : Passionauffuehrungen in den Thomas-und Nikolaikirche Leipzig,(1721) 7.4.1724 bis 4.4.1738, in : BD II, Nr.180 (S.140f.)
(2) Alfred Duerr : Zur Chronologie der Leipziger Vokalwerke J.S.Bachs, in : BJ 1957,S.5-162 ; 2.Aufl. 1976
(3) Joshua Rifkin : The Chronology of Bach's Saint Matthew Passion, in : MQ 1975, p.360-387
(4) Andreas Gloeckner : Neuerkenntnisse zu Johann Sebastian Bachs Auffuehrungs-kalender zwischen 1729 und 1735, in : BJ 1981, S.43-75
(5) Yoshitake Kobayashi : Zur Chronologie der Spaetwerke Johann Sebastian Bachs. Kompositions-und Auffuehrungataetigkeit von 1736 bis 1750, in : BJ 1988,S.7-72
(6)Verbot einer Passionsauffuehrung Leipzig, 17.3.1739, in : BD II, Nr.439 (S.338f.)(邦訳:バッハ資料集〔バッハ叢書 10〕,白水社1983, p.80f.)

略記号 ・ BD : Bach-Dokumente
   ・ BJ : Bach-Jahrbuch
   ・ MQ : The Musical Quarterly

II.バッハの受難曲の構成

 現存するバッハの受難曲は<オラトリオ風受難曲>と呼ばれるタイプに属し、次の3つの層から成る。
 マルコ受難曲の音楽もテクストから見ると同じタイプであったと考えられる。

1.福音書の受難章

 グレゴリオ聖歌以来の、受難物語の骨格部分、伝統的な受難物語は無伴奏であった。
 大きく3つの部分に分かれる。
(1) 福音史家 Evangelist−福音書に基く話の筋を平坦な詩篇朗唱調Psalmtonで物語る。伝統的にテノールが受け持つ。バッハはこの部分に通奏低音伴奏のセッコ・レツィタティーフを書いた。
(2) イエス-バスの役。バッハはレツィタティーフ、ときにアリオーゾを用いた。
(3) 群衆-伝統的に高い声域で朗唱された。
ウ)個々の人物(イエス以外の人物、すなわちペテロ、ユダ、ピラト等)。
  バッハではセッコ・レツィタティーフ。
エ)群衆(弟子たち、ユダヤ人たち、兵士たち等)。バッハは情況に応じて劇的な合唱を書いた。

2.マドリガル風の自由詩

 詩人が書いた感情表現のための叙情詩が受難物語の各場面に挿入される。ピカンダーの<受難詩>はこのような詩を指している。ここに用いられたバッハの音楽は、イタリアのオペラに由来する独唱(レツィタティーフ、アリア、アリオーゾ)、二重唱等で、多彩なオブリガート楽器を伴うことが多い。合唱で作曲される場合もある。後述する<マルコ受難曲>の原曲に関する考察の大部分はこの音楽に限られる。

3.コラール

 プロテスタント教会の伝統的な賛美歌の歌詞と旋律を用いて歌われ、会衆の感情を表現する。バッハはコラールを誰よりも巧みに使用した。多くは4声体の単純な編曲。しかしときには大規模なコラールファンタジアに展開されることもある。 

III.J.S.バッハのマルコ受難曲

1.テクストのもつ特徴

(1) 形態上の比較
マタイ(ピカンダー,1729年出版) 
    聖書テクストは印刷せず、レツィタティーフ、アリアの挿入箇所を指定する。
    コラールテクストの指定は、アリアと関連させて2箇所のみ。
    全体がシオンの娘と信者の対話を軸に構成される。
    <トマス教会>と記載され、年の記載はない。
マルコ(ピカンダー,1732年出版)
    聖書テクスト、アリア及びコラールを物語の順序にすべて印刷した完全な受難曲テクスト。
    <シオンの娘>のような象徴は用いていない。
    <1731年>の記載があり、教会名はない。(P.**参照)
  
(2) アリアおよびコラールの挿入箇所
i)マルコ、マタイ両福音書の受難物語は、僅かな挿話の有無を除けばほとんど同様に進行する(共観福音書)。このため両受難曲のアリアとコラールは類似の段落に置かれている。
ii)マルコはマタイおよびヨハネと比較するとアリアの数が少なく、その代わりにコラールの多いことが目立っている。レツィタティーフ或いはアリオーゾをもたないこともマルコの特徴の一つとされよう。聖書テクスト中の群衆合唱を含めてこれらの数を比較する。

マルコ

マタイ

ヨハネ
アリア

6

15

8
コラール

16

13

11
群衆合唱

12

18

14

    
iii)群衆合唱の数の相違は福音書の性格に基いている。   

 ところで群衆合唱の数が少ないことは音楽の面で劇的要素が少ないという結果を招く。 これらを考慮すると、マルコ受難曲の規模はマタイ,ヨハネのそれには到達しない、控え目なものであったと推定される。

2.失われた受難曲音楽復元の問題

2.1 文献学上の立場から

 理論的に考えれば、存在していた音楽が全く失われた場合には以下の諸点からだけでも完全な復元は非常に困難、或はほとんど不可能と考えられる。従ってどの程度近似値に近づけるかという問題になるが、何れにしても模範回答のない問題である。

(1) 受難曲の骨格である聖書テクスト部分の音楽が欠落しているため、全体構成の重要な要素である調性秩序が判明しない。(マタイ:ホ短調, ヨハネ:ト短調)
原曲と考えられるものが何曲か再発見されても、バッハは転用(これをパロディとも言う)する際に調性を変えることがある。
(2) 自由詩に付けた音楽が旧作の転用であり、推定された原曲が正しかった場合にも、バッハが転用に際して作り変えなかったという保証はない。
変更の例 : 
    BWV187/3→ト短調ミサ BWV235,“Domine fili"(拡大)
    BWV11/4→ロ短調ミサ BWV232,“Agnus Dei"(短縮)
或いはテクストが部分的に変更される場合もある。
(3) コラール16曲のうち1曲或いは2曲が多声処理されたコラールファンタジアとして拡大されていたことも考えられる。
(4) マルコ受難曲のアリアが転用作品であり、しかもその原曲までも失われた場合には、我々には何の手がかりもない。

2.2 原曲の推定

バッハがマルコ受難曲の作曲に当たり、自分の旧作の音楽を転用した可能性は早くから推定されていた。原曲推定の幾つかを年代順に挙げる。

(1)「早くも Leipziger Allgemeine Musik-Zeitung, Jg.1836, s.531および 532 が、哀悼頌歌<侯妃よ、なお一条の光を> Trauerode "Lass, Fuerstin, lass noch einen Strahl" (BWV198) に対するこの曲〔マルコ受難曲〕の関連を指摘している」という記述がある。(D.ヘルマン : マルコ受難曲復元版, 1964への序文)
この雑誌は Allgemeine Musikalische Zeitungとは異なり、管見の範囲では我国に所蔵する音楽図書館はないようなので、上述記事を確認できない。

(2)ヴィルヘルム・ルスト(1873)
 旧バッハ全集の編集者ルスト(1822-1892. 1855-1878 の間に全60冊中27冊を編集)が、マルコ受難曲中の合唱曲2曲とアリア3曲の詩行構造は、1727年に作曲・演奏された上記<哀悼頌歌>の相応する諸楽章と一致することを指摘した。(P.**参照)この場合に比較の対象となった両曲の音楽のもつ感情表現の一致も考慮された。(Wilhelm Rust : BG 20(2), Vorwort, S.VIII-IX, 1873)
この提案はこれ以後すべて受け入れられている。

 ゴットシェトの詩<哀悼頌歌>の1節の詩形は韻律比較(P.**)中の8行詩BWV198/8およびBWV198/10(この2つは共通)によって分かるように次のとおりである :
             ヤンブス(弱強格)
             音節数 : 8.9.9.8|9.8.8.9
             脚韻の配置 : a.b.b.a|c.d.d.c
従って合唱BWV198/1とアリアBWV198/5はこの形の詩節の前半4行、またBWV198/3は後半4行を用いていることが明らかになる。
 さらにゴットシェトの9節から成る8行詩をバッハがカンタータ用に割り振った10曲のテクストと対比することによって全体構造の上からも、このことは確認できる。(P.**参照)
 <マルコ受難曲>の合唱曲は2曲ともヤンブス、4行と8行、またアリア6曲中の3曲もヤンブス、4行と8行をもち、残り3曲はトロヘーウス(強弱格)で行数が異なることも直ちに判明する。ヤンブスの詩を取り上げ両曲のアリアの音節数と脚韻の配置を見れば詩形の相似を知ることができる。形式上の相似が見出されたならば、次に詩の内容/情緒と音楽の表現内容の相似の有無を検討する。
 ルストは恐らくこのような作業を行って上記結論を得たに違いない。

(3)ゲルハルト・フライエスレーベン(1916)
 クリスマス・オラトリオBWV248(作曲1734年)の第5部(新年後日曜日)Nr.45 <今度お生まれになったユダヤ人の王はどこにおられるか> "Wo ist der neugeborne Koenig der Jueden" (マタイ2,2)の言葉に付けられた、激しく突進するような合唱はこのテクストの内容と調和しない。「むしろ受難曲のユダヤ人の合唱の方向を遥かによく指し示す性格描写である」と考えたフライエスレーベンは、これが失われたマルコ受難曲の「十字架の前のユダヤ人の最初の合唱」,<へぇー、神殿をこわして3日後に建てるお方よ・・・> "Pfui dich, wie fein zerbrichst du den Tempel・・・" (マルコ15, 29-30. Nr.39b)のテクストに「文字どおり正確に全く困難なく」付けることができると主張し、楽譜を添付した。そうするとこの合唱はマタイ受難曲の同じ箇所<神殿をこわして3日のうちに建てる人よ・・・> "Der du den Tempel Gottes zerbrichst" (マタイ 27, 40. Nr.58b(67))と同様な嘲りの雰囲気をもつ。これはマルコ受難曲の方が原曲として見出された例である。この提案も大方認められている。(Gerhard Freiesleben : Ein neuer Beitrag zur Entstehungsgeschichte von J.S.Bachs Weihnachtsoratorium,in : NZfM Jg.83, 1916, S.237 f.u.Beilage)

(4)アルノルト・シェーリング(1939)
 1907-1939の間バッハ年鑑(1904年創刊)の編集に携わり、第2次世界大戦前の代表的な音楽学者の一人A.シェーリング(1877-1941)は、マルコ受難曲についてパロディ曲の原曲の提案は行わなかったが、今日から見るといささか奇妙に思われる論考を発表した。

   受難曲の演奏年代
        1728年   (他人の作品)   ニコライ教会
        1729年    マルコ       トマス教会
        1730年   (他人の作品)   ニコライ教会
        1731年    マタイ       トマス教会

マルコ受難曲のスコアもパート譜も後世に伝わらなかった理由は、後から大作マタイ受難曲を書いたため、類似の物語進行をもつ以前の作品マルコ受難曲の楽譜をJ.S.バッハ自身が破棄したためである、とシェーリングは推定した。演奏年代を含め、この考えはその後取上げられていない。(Arnold Schering : Zur Markus-Passion und zur "vierten" Passion, in : BJ 1939, S.1-32)

(5) フリードリヒ・スメント(1940)
 20世紀前半期のバッハ研究家F.スメント(1893-1980)はヨハネ(1926)、マタイ(1928)の両受難曲およびロ短調ミサ(1937)等に関する論文を精力的に発表し、また新バッハ全集刊行の初期に<ロ短調ミサ>の巻の校訂報告書(1956)で論議をひき起こした。彼はマルコ受難曲についても以下の貢献を行っている。

i)上記シェーリングの年代に異を唱え、従来のマルコ1731年説に戻した。
ii)ユダの裏切り場面の後に置かれたアリア<偽りの世よ、お前の媚びた接吻は> "Falsche Welt, dein schmeichelnd Kuessen" (Nr.19)は後にカンタータBWV54/1<罪に負けるな> "Widerstehe doch der Suende" に転用されて我々に伝えられたものであり、詩形だけでなく音楽の内容が完全に重なるという理由を挙げて論証した。現代の年代研究によれば逆に<マルコ受難曲>の方が、ヴァイマールで1714年に作曲されたこのカンタータからの転用であると考えられる。
iii)16曲のコラールも他の箇所に伝えられているかどうかという問題―
 C.P.E.バッハが編集した、370曲を含む4巻のコラール曲集(1784-87)および現存する受難曲、カンタータ等の中に伝えられた4声コラール曲を検討して、以下の結論を得た。

マルコ受難曲のテクスト内容と一致するもの 5
考えられる、或いは可能性がある 7
決定不可能 4

(Friedrich Smend : Bachs Markus-Passion, in : BJ 1940-48,S.1-35 ; Bach-Studien, 1969, S.110-136)
この論文はA.シェーリングによってBJ1940に取上げられたが、この年巻はすべて火災で全滅し、第2次世界大戦後最初のBJ1940-48の中で変更されずに発表されたものである(スメントの後記による)。

(6)オルトヴィン・フォン・ホルスト(1968)
 クリスマス・オラトリオ第3部(クリスマス第3日),Nr.26合唱<さあ、ベツレヘムへ行こう> "Lasset uns nun gehen gen Bethlehem"(ルカ2,15)を、マルコ受難曲の証人の合唱<私たちはこの男が人間の手で造ったこの神殿を・・・> "Wir haben gehoeret, dass er sagete・・・" (マルコ14, 58. Nr.25b)のパロディとして証明しようと試みた。(Ortwin von Holst : Turba-Choere des Weihnachts-Oratorium und der Markus-Passion, in : Musik und Kirche Jg.38, 1968, S229-233)
 しかし彼の提案は、「このとにかく可能なパロディ処理に関する彼の論拠は、彼の先駆者たちと同じ説得力には達していないだろう」と批判されている。(Alfred Duerr, NBA II/5, 校訂報告, 1974, S.259.)
 マルコ受難曲の原曲について考える場合には、上記ルストおよびスメントの提言が先ず取り上げられる。

2.3 復元版の形態

 文献学上の根拠に基く原曲の推定と、その成果を利用して行う復元版の編集は必ずしも同じ作業ではない。演奏を目的とする楽譜を目指してマルコ受難曲の復元版を計画する場合に考えられる形態にも何種類かある。

(1) 推定された原曲に基く

a.合唱、アリア、コラール

i)上記2.2項で述べた、推定されたバッハの原曲にピカンダーのテクストを付ける(文献学的成果の尊重)。
ただしコラール編曲の選定には編集者の見解の入る余地がる。
ii)原曲の推定を必ずしも上記ウ)に捉われず、さらに独白に行う(文献学的レベルは必然的に低下する)。

b.聖書テクスト

i)省略する。
ii)朗読による。
iii)部分的にバッハの既存の曲の中から選定する。
iv)新規に作曲する(様式は作曲家に任される)。

(2)ピカンダーのテクストに全く新たに作曲する ― この方法はバッハと同じテクストを用いるものの音楽の復元ではなく、新作と言うべきものであるためBWV247の番号を付けることには疑問がある。  

2.4 出版譜

2.4.1 ヘルマン版(1964)

(1) Johann Sebastian Bach. Markuspassion,herausgegeben von Diethart Hellmann, Stuttgart-Hohenheim 1964 (Haenssler, Die Kantate 209 ; Carus 31.247)
内容:

曲数

典拠
合唱曲

2
ルスト
アリア

3
ルスト
アリア

1
スメント
アリア

1
ヘルマン
コラール

10
スメント
コラール

2
ヘルマン

19曲
 

 上述した文献学の成果から大きく逸脱することのない、妥当な復元版である(内容の詳細についてはP.**参照)。

(2) 実用版編集の際の妥協

i) アリア

(a)<地も天も> "Welt und Himmel" (Nr.42)
 スメントはこのアリアと同じ韻律をもつ唯一の現存するアリアBWV7/2は音楽がふさわしくないと判断した。「力づくでしか我々はこの言葉をこの曲と一致させることはできない」
 ヘルマンはスメントの考えを承知の上で、しかし作品全体の重要な箇所(イエスの死の後)に是非アリアが必要であるため、別の方法を提案する。すなわち1729年頃の結婚カンタータBWV120a/3<導き給え、神よ、あまたの愛によって>"Leit o Gott, deine Liebe" を用いるのだが、このアリアのテクスト(6行詩)の後半3行の音節数が受難曲より多い(P.**参照)ため、語の繰返し部分で形を調えている。
 このアリアはヴィオラ・ダ・ガンバと通奏低音伴奏で伝えられていて不完全なため、その原曲と考えられるBWV120/4の伴奏部を転用する。ここにViolino concertino パートがあるため、恐らくソロ・ヴァイオリンをもつマタイ受難曲のアリア2曲、およびヴィオラ・ダ・ガンバのソロをもつヨハネ受難曲のアリアを考慮してヘルマンはこの曲を選んだものと思われる。これも実用版なるがための妥協の一つであろう。
(b)<偽りの世よ> "Falsche Welt" (Nr.19)の声域が大変低いため3度高く移調する(変ホ長調→ト長調)。

ii)福音書は朗読されることを前提とし、各曲を原則として下記のように配列する :
     合唱-コラール-アリア(調性を考慮)
     2部分のカンタータ様式
iii)コラールは16曲中12曲使用する。
iv)フライエスレーベンが推定した群衆合唱は重要部分ではなく、また1箇所だけであるため使用しない。
v)オーケストレーション ― 哀悼頌歌BWV198からの転用楽章が多いため、フルート2、オーボエ2、弦および通奏低音から成る通常の編成にヴィオラ・ダ・ガンバ2、ことによるとリュート2が加わって響きを豊かにしたことも考えられる。

2.4.2 タイル版(1980)

(1) Johann Sebastian Bach. Markuspassion nach BWV 247, rekonstruiert und ergaenzt von Gustav Adolf Theill, Klavierauszug, Rob.Forberg, Bonn-Bad Godesberg 1980

(2)この版には文献学上の成果に基く部分に加え、実用版としてできる限り多くの部分をバッハの音楽で埋めようとする意図が明らかに見られる。従ってヘルマン版に比べて収録曲が大幅に増加している。このような方法はデュルが、「余りに明白に文献学者の良心が、曲全体を維持しようとする願望の背後に退いているに違いない」(前掲書)と批判したものに該当しそうである。それでも前述の事項を理解した上で、真の復元とは別の要素が多量に混入した版として見ることはできるだろう。

(3)文献 : Gustav Adolf Theill : Die Markuspassion von Jon.Seb.Bach (BWV247). Entstehung-Vergessen-Wiederentdeckung-Rekonstruktion, Salvator-Verlag Steinfeld 1978 2/1981

2.4.3 ゴンム版(1997)

(1) Johann Sebastian Bach. Markuspassion nach BWV247, Rezitativ und turbae von Reinhart Keiser (1647-1739). Rekonstruktuon, Edition und Klavierauszug von A.H.Gomme, Baerenreiter Kassel etc. BA 5209a, 1997

(2)下記の音楽を接続した混成受難曲  Pasticcio-Passion

・聖書部分(レツィタティーフ、群衆合唱) ― ラインハルト・カイザー(ハンブルクで活動した)のマルコ受難曲
・自由詩部分 ― バッハ
・コラール ― バッハおよびカイザー

苦肉の策ともいえる合成版であり、復元版として取上げる性質のものではないが、一言触れておく。

(3)関連論文 : A.H.Gomme : Ein neuer Versuch mit der Markus-Passion, in : Musik und Kirche, 68.Jg.1998, S.30-38

IV. フォルカー・ブロイティガムによる補作(1981)


 フォルカー・ブロイティガムによる補作(1981)作曲家ブロイティガムが書いたこの作品の表題は

<J.S.バッハのマルコ受難曲> *1.

  に付けた

<福音書の音楽> *2.

である。

Evangelienmusik*2.

  zu

Johann Sebastian Bachs

 Passions Music nach dem Evangelisten Marco.*1.

              Volkar Bräutigam 1981

 この標題は、すでに2つの異質の部分が並存することを語っている。


*1.<J.S.バッハのマルコ受難曲>部分

 音楽は上記III.2.4.1(1)項に述べたディートバルト・ヘルマンの復元版を用いる。従ってテクストはピカンダー、すなわちバッハ時代のドイツ語で歌われ、合唱、独唱およびオーケストラによってバロック音楽が演奏される。この部分の標題にドイツ語の古い綴字"Music"と"Marco"が用いられているのも意図的なものと考えられる。

*2.〈福音書の音楽>の部分

 現代ドイツ語訳のマルコ福音書をテクストとしてブロイティガム氏が作曲した現代の音楽。この部分の標題は現代風の綴字"Musik"で書かれている。

 受難章はピカンダーのテクストと同じ箇所を用いるが、枝葉にわたる細部を省略し、強調したい挿話は残して簡潔に編集されている(ピカンダー:約2340語、ブロイティガム:1985語)。このテクストはプログラムの歌詞対訳を御覧いただきたい。

 伴奏はオルガンと打楽器がときには不協和音、またときにはトーンクラスターなども駆使し、打楽器の乾いた響きと共に情景を描写する。

(1)福音史家(エヴァンゲリスト)

i)物語の報告部分
 グレゴリオ聖歌以来の伝統的な詩篇朗唱調(同じ音程で流れるように語る)によってテノールが淡々と物語る。
ii)緊迫した場面の報告
 レツィタティーフであるが、語られる内容に応じて音の動きが激しく、リズムも複雑となって伴奏楽器と共に切迫した雰囲気を表わす。

(2)イエス(バス)

 語る内容に応じて変化するレツィタティーフ。

(3)個々の人物(ペテロ、ユダ、ピラト等)および合唱(弟子たち、ユダヤ人たち、兵士たち等)−

 切迫した場面で短い発言をもつことが多く、単声、2声またはそれ以上の声部が1つまたは2つの音符、或いはシュプレヒコーア風の表現で即物的に訴えかける。前述のオルガンと打楽器の表現と表裏一体であることは言うまでもない。


 恐らく作曲家の意図は、言葉と音楽の両方の面でバロックと現代を向き合わせ、これを空間的な配置の助けを借りて(東京の劇場構造の中でどこまで成功するかわからないが)、聴覚と視覚にも訴えながら提出した1つのメッセージであると思われる。一これはバッハの重い伝統を担うライプツィヒの音楽家が、ルター神学の根底にあるイエスの十字架の問題との、現代における関わりについて提出した1つの提言なのである、と。
 この音楽は東西ドイツ統合以前、1981年に書かれたものであることも考えておくべきであろう。

V.<哀悼頌歌> Trauerode BWV198

 マルコ受難曲の主要部分が<哀悼頌歌>の音楽からの転用であることがヴィルヘルム・ルストによって指摘されたことは前出<マルコ受難曲>の2.2「原曲の推定」(2)の項で述べたとおりである。ここではこの哀悼頌歌について簡単に記す。
 意外に思われるかもしれないが、バッハ作品のうち、この頌歌のように同時代の記録によって成立事情とその時期が判明するケースは極く稀である。

1.ザクセン選帝侯妃の死

 マルティン・ルター(1483-1546)にはじまる宗教改革の発信地であるザクセンはプロテスタントの国であり、この地の選帝侯はドレスデンに居を構えていた。
 フリードリヒ・アウグスト侯(1670-1733)は元来プロテスタントであったが、政治上の理由からカトリックに改宗してポーランド国王を兼任した(1697年)。
 侯妃クリスティアーネ・エーバーハルディーネ Christiane Eberhardine (1671年生) はブランデンブルグ=バイロイト辺境伯の王女に生まれ、フリードリヒ・アウグストと1693年に結婚したが熱心なプロテスタントの立場を守り、夫の選帝侯の改宗後別居してドレスデンを去って、エルベ川下流のプレツチュの城に住んだ。この態度のために彼女はザクセンの国民から敬愛されていたという。彼女は1727年9月にこの別居先で亡くなった。

2.哀悼頌歌の成立

 侯妃の死去に伴って国喪が発表されたが、この時ライプツィヒ大学の学生ハンス・カール・フォン・キルヒバッハが大学教会(パウロ教会)で故侯妃のための追悼式を計画して大学とドレスデン宮廷の許可を得た。
 この追悼式は<賞賛と追悼の辞> Lob-und Trauerrede がドイツ語で述べられ、ドイツ語による哀悼音楽がその前後に演奏されるというものであった。この時代の慣例に従えばラテン語で行われたと思われる大学の行事をドイツ語で挙行することになったのは、キルヒバッハも所属していた<ドイツ語協会> Deutsche Gesellschaft の指導的立場にあったゴットシェト Johann Christoph Gottsched (1700-1766)が背後にいたためと考えられる。彼はこの後ライプツィヒ大学で詩学・哲学の教授となり、また多くの著作によって啓蒙主義時代初期のドイツ語浄化運動に貢献した。この協会も詩からはじまって<良い趣味の>ドイツ語―バロック風の誇張された傾向に対するもの―の普及を目的としていたため、追悼式は一つの実践またデモンストレーションの機会になったものと思われる。
 フォン・キルヒバッハは哀悼頌歌のテクスト作成をゴットシェトに、作曲と演奏を市の音楽監督バッハに依頼した。大学教会には作曲と演奏に関して別の権利関係があったため、バッハの起用をめぐって紛糾したが、強力にバッハを支持したキルヒバッハによって追悼式は計画どおり1727年10月17日に挙行されて音楽も演奏され、チェンバロのパートをバッハが弾いた。この音楽が<哀悼頌歌> Trauerode  BWV198 である。

3.ゴットシェトの詩とバッハのテクスト処理

(1) ゴットシェトは各節8行、ヤンブス(弱強格)をもち、9節から成る、極めて均整のとれた哀悼詩を書いた。定形的な表現が多いことはこの詩の目的からやむをえないのであろうが、形式と用語法は彼の持論を表わしているものと思われる。7節までに<侯妃> Fuerstinの遺徳をたたえて国中の嘆きと哀悼の意を述べた後、8・9節で彼女には本意ではないかもしれないが、ポーランドを含む広大な領域に言及し、<王妃> Koenigin と呼びかける。(詩形について参照)

(2) バッハは作曲に際して均一な各詩節を分割、統合して4行、或いは8行詩に組み替えた10曲のカンタータテクストを作り、これを用いて合唱、レツィタティーフおよびアリアを作曲した(ゴットシェトの詩全体と、バッハの曲番号との関係についてはP.**参照)。8行詩をそのままに用いた部分も4箇所にある。
 ゴットシェトの詩の順序には手を加えず、また詩節はすべて使用した。言葉を一部変更した箇所もある。

(3)ゴットシェトの詩にバッハが作曲した例は、哀悼頌歌以外に現在2曲証明されているが、これらの音楽は失われ、テクストだけが知られている(1725年の結婚カンタータ BWV Anh.196, および1738年の表敬音楽 BWV Anh.I 13)。この2つの詩はレツィタティーフとアリアの形で書かれている。
 哀悼頌歌の詩作に当ってゴットシェトは荘重なスタイルともいえる8行詩9詩節の詩形を選んだのかもしれないが、結局バッハはこれをレツィタティーフとアリアをもつイタリア様式のカンタータテクストに改めてしまった。ゴットシェトがこれをどのように考えたかは分っていない。

(4)バッハの音楽の側から見ると、作り変えられたテクストはよくできていると思われる。特に合唱2曲とアリア2曲を簡潔な4行詩(ゴットシェトの8行から成る1節の2分割)に作曲したため、もとの詩節がもつ4行ずつの2つの複合的な観念の中から中心となるイメージを取り出して音楽で浮かび上らせることができ、これによってバッハの鮮やかな表現の技量を示すことに成功したからある。

付録1. Diethard Hellmann版マルコ受難曲(1964)の内容

Nr.(1) Nr.(2) 曲種 曲頭 BWV(原曲) 提案者 Choralgesaenge R 18 調性

Prima Parte
1. 1 Chorus Geh Jesu, geh zu deiner Pein 198/1 Rust     h
5.

(2)

Choral Mit hat die Welt trueglich 244/32(38) (Sment)     B→A
7.

(3)

Cholal Ich, ich und meine Suenden 393 (Sment) III/275   A
9. 2(4) Aria(A) Mein Heiland 198/5 Rust     D
11.

(5)

Cholal Wach auf, o Mensch 397 Sment III/274 23 F
13. 3(6) Cholal Betruebtes Herz 428 Sment IV/321   G
17. 4(7) Aria(S) Er kommt, er kommt 198/3 Rust      
19. 6(8) Aria(A) Falsche Welt 54/1 Sment     Es→G
21. 5(9) Cholal Jesu, ohne Missetat 355 Hellmann II/169   A→G
23. 7(10) Cholal Ich will hier bei dir 271 (Sment) IV/366    

Seconda Parte
24. 8(11) Aria(S) Mein Troest ist 198/8 Rust     e
28.

(12)

Cholal Befiel du deine Wege 270 (Sment) III/285 62  
30.

(13)

Cholal Du edles Angesichte 244/54(63) (Sment)     F
32.

(14)

Cholal Herr, ich habe missgehandelt 331 (Sment) III/286 63 A
36. 9(15) Cholal Man hat dich sehr hart 354 Hellmann IV/368    
40.

(16)

Cholal Keinen hat Gott verlassen 369 (Sment) II/129   E
42. 10(17) Aria(S) Welt und Himmel
120a/3
120/4
Hellmann     G
44. 11(18) Cholal O! Jesu du 404 (Sment) I/60   c→h
46. 12(19) Chorus Bei deinem Grab 198/10 Rust     h