モテットについて

 「モテット Motette」という言葉が使われ始めたのは13世紀頃までさかのぼる。さまざまな形式の多声声楽曲を示すものとして使われて以来、19世紀にほぼ定着した〈ア・カペラ(無伴奏)による宗教的合唱曲〉を指す言葉に至るまで、その過程には地域によってもかなりばらつきがあった。一方、歴史的には「モテット」の全盛期はルネサンス時代であり、この時期の〈ポリフォニーによる宗教的合唱曲〉を示すという考えもある。ではドイツではどうだったのか。バロック時代になり、プロテスタント圏において、ラテン語からのドイツ語訳聖書と結びついた形での発展が見られ、その代表的なものがハインリッヒ・シュッツの《宗教的合唱曲集 1648年》である。だがその後はプロテスタント教会ではカンタータが中心をなすことになり、J.S.バッハの時代においては新たに作曲するモテットは葬儀など〈特別〉の機会のものがほとんどであった。しかし、それでもモテットは日常の中に生き続けていた。それは「モテット」の全盛期であったルネサンス時代のラテン語モテットをドイツの作曲家兼牧師エアハルト・ボーデンシャッツ(1576〜1636)が集成し出版した、大規模な選集《フロリレギウム・ポルテンセ Florilegium Portense》に含まれる曲を、バッハも〈特別〉のモテットと区別して、日曜礼拝で〈日常的 gewoehnlich〉モテットとして繰り返し演奏していたからだ。ただ、バッハにおいてはこの〈日常〉のモテットを新たに作曲したものは一つもない。

[モテット 「正しき者は滅びしも」 「イエスよ、わが喜び」]

 現在J.S.バッハの作とされるモテットは、真偽の程が定かでないものを含めると全部で11曲ある。作品番号では、 BWV118、 BWV225、 BWV226、 BWV227、 BWV228、 BWV229、 BWV230、 BWV231、 BWV1083、 BWV deest そして BWV Anh.159となる。今回取り上げるのは、そのうち 《正しき者は滅びしも Der Gerechte kommt um》 BWV deest(BC C8)《イエスよ、わが喜び Jesu, meine Freude》 BWV227の2作品。前者はおそらく受難曲の一部として、また後者は追悼式で演奏されたとのことであり、バッハが亡くなった7月28日も考慮しての選曲となったが、いずれも成立年代ははっきりしていない。
 《正しき者は滅びしも》 はバッハの前任のトーマス・カントール、ヨハン・クーナウ作のア・カペラによるラテン語モテット 《わが心は悲しみ Tristis est anima mea》 をバッハが編曲したものとされるが、はっきりとした証拠はない。そもそも 《わが心は悲しみ》 がクーナウの作品とされていること自体が不確かなのである。クーナウ作とされる根拠の一つは、1810年から1823年までトーマス・カントールを務めたJ.G.シヒトの遺産の中にクーナウ作品としてこの曲の総譜が含まれていたからだが、その筆跡が他のクーナウ作品の自筆譜とは明らかに異なっているとの結果も出ている。またこの曲を編曲したのがバッハだとする根拠として、編曲の際に追加したオーケストラの作りがバッハのモテット 《イエス・キリスト、わが生命の光 O Jesu Christ, meinヤs Lebens Licht》 BWV118と部分的ながら非常に似ていることなどが挙げられているが、断言するには至っていない。
 また、《イエスよ、わが喜び》 はバッハの自筆総譜が無く、1735年頃のJ.L.ディーテルによる筆写譜が存在していることから、それ以前の作品であることは確かだが、一般に言われている「1723年7月18日の中央郵便局長未亡人ヨハンナ・マリーア・ケースの追悼式で演奏された」という考えは、その根拠を示す明確な資料がないままとなっている。

 次に曲の内容だが、《正しき者は滅びしも》 のテキストはラテン語からルター聖書のイザヤ書57章第1,2節に置き換えられている。ソプラノが2パートに分かれた5声部のこの曲は、編曲の際、オーケストラが加えられ、さらに8小節の前奏と間奏が付け加えられている。また、8段落からなるラテン語テキストは5段落のドイツ語に書き換えられ、それに伴い言葉に対する音符の付け替えも部分的に行われており、確かにバッハの改作技術によってうまく仕上がっているように思われる。
 《イエスよ、わが喜び》 もソプラノ2パートの5声部の曲で、11曲からなり、バッハのモテットの中で最も長大な曲である。全体が第6曲を中心にシンメトリー(対称形)の構造となっており、第1曲・第3曲‥‥といった奇数曲(全6曲)のヨハン・フランク作詞によるコラールを、第2曲・第4曲等の偶数曲(全5曲)に配されたルター聖書『ローマ人への手紙第8章』の言葉により注釈する形を取っている。第1曲はこのモテットの標題をなし、第2曲と第3曲では「進む wandeln」や「サタン Satan」といった言葉にふさわしい音型での表現が見られる。第4曲は女声3部によって「霊」を意識させ、「死」との戦いを描く第5曲に続き、第6曲は二重フーガの形を取りこのモテットの中心を成している。第7曲では「苦しみ」や「十字架」等を〈ため息〉の音型で描き、第8曲は第4曲に対し、アルト、テノール、バスの3声部で唱う。第9曲ではこの世からあの世への移行を表現している。第10曲では第2曲の音楽が再び現れ、第11曲も第1曲とほぼ同じ和声づけで唱和し全体のシンメトリーを示して全曲を閉じる。

(大石康夫:会員)


[バッハのマルコ受難曲(BWV247)]

 J.S.バッハ(1585−1750)の死後、彼の次男C.P.E.バッハと弟子のJ.F.アグリーコラが出版した『故人略伝』によると、バッハは受難曲を5曲作ったとされるが、真作と認められるヨハネ受難曲(BWV245)、マタイ受難曲(BWV244)、マルコ受難曲(BWV247)以外の2曲については、未だ定説がなく、謎に包まれている。
 マルコ受難曲にしても、完全な形で伝世されたヨハネ、マタイの両曲とは異なり、歌詞のみが残されて音楽自体の資料は失われている。よってその演奏は、バッハが多彩に駆使したパロディ(先行作品の転用)の技法を手掛かりに、他の現存作品から極力復元し、出来ない部分は補作を試みるという方法によらざるを得ない。今日、ヨハネ受難曲とマタイ受難曲は名曲の誉れ高く、広く親しまれているのに比して、このマルコ受難曲が鑑賞の機会に恵まれない所以はここにある。
 いうまでもなく、マルコ受難曲は、新約聖書の冒頭に登場する4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の中の『マルコによる福音書』に基づいて作られた。この福音書は、4つのうちで制作年代が最も古く、簡素な叙述ながら、福音書文学としての先駆けをなした。バッハは、その第14・15章の聖書章句を中心に、レチタティーヴォ、アリア、コラール(讃美歌)・群衆合唱を含む合唱で構成する、いわゆるオラトリオ風受難曲の様式を以て作曲した。初演は、1731年の聖金曜日(3月23日)にライプツィヒの聖トーマス教会で行われたと推定される(後注のタイルは1928年説)。なお、自由詩はマタイ受難曲にも起用されたC.F.ヘンリーツィ(別名ピカンダー)の作である。

 さて、マルコ受難曲の復元は長年のバッハ研究の成果の一つであるが、中でも有名なのは、冒頭・終曲の合唱曲と3曲のアリアが追悼頌歌「侯妃よ、さらに一条の光を」(BWV198)からのパロディであるとしたW.ルストの研究(1873年)である。こうした先行研究に基づき、1964年にD.ヘルマンによる復元曲集が出版された。(注:ヘルマン以外には、1980年のG.A.タイルによる自説を織り込んだ復元出版がある。)
 本日演奏されるマルコ受難曲は、そのヘルマンの曲集をべースとして、これにV.ブロイティガムが自らの作曲による補作を組み合わせた(1981年)ものであり、本邦において初演となる。補作は聖書章句(レチタティーヴォと群衆合唱)の部分であって、これは現代的手法が用いられている。オルガンと打楽器による十二音技法で始まる導入や、全編を貫くバロック音楽と現代音楽の対峙は、復元に伴う不完全性を超え、「現代において復元とは何か」という本質諭に迫るものがある。

<第一部>

 福音史家(聖マルコ)が物語の始まりを告げると、冒頭の合唱がイエスを励まして受難を暗示する。
[祭りの前]祭司長・律法学者たちは過越の祭りが終るのを待ってイエスを亡きものにしようと図る。イエスはベタニアで高価な香油を頭に注ぎかけられ、これは埋葬の準備をしてくれたのだと言う。ユダが裏切りを企てると、コラールが「偽りからお守り下さい」と祈る。
[主の晩餐]祭りの日、イエスは食事の席で弟子の裏切りを予言すると、コラールが「それはわたしの罪」と唱う。さらにイエスがパンとぶどう酒を私の体・私の血であると述べ、もうぶどう酒を飲むことはあるまいと死を暗示すると、アルトのアリアが「主よ、あなたを忘れません」と続く。
[ゲッセマネの祈り]食後オリーブ山で、イエスが羊の例を引き「皆がわたしにつまづく」と予言すると、コラールが「罪の眠りから目覚めて、生き方を改めよ」と弟子たちに呼びかける。さらに、イエスはペトロに「あなたは三度わたしを知らないと言う」と予言する。ゲッセマネに着くと、イエスはひどく恐れ悲しみ、コラールが「希望を持ちなさい。すべては良くなる」となだめて、聖書の古い予言の成就を暗示する。イエスが三度祈る間、弟子たちは三度眠り込む。
[逮捕]ソプラノが「彼が来ます。逃れて下さい」とアリアを歌い終えるや、ユダが祭司長たちを連れて現れ、イエスに口づけをする。これをアルトのアリアが「棘と罠のある毒」と強く責める。イエスは捕らえられ、コラールが「罪もないのに」と嘆く。弟子たちがイエスを見捨てて逃げ去ると、コラールが「わたしはお側から離れません」と信念を吐露して、第一部を締めくくる。このコラールと第二部の二つのコラールには、マタイ受難曲にも登場する有名なハスラーの旋律が用いられる。

<第二部>

 冒頭にテノールのアリアが「不正の裁判が死の判決を下す」と歌い、物語後半の展開を示す。
[裁判]大祭司の前に連行されたイエスは、数人の偽証にも黙したままなので、コラールが「道をお示し下さい」と促す。大祭司に「おまえはメシアか」と尋ねられたイエスは初めて肯定し、これが冒涜だとされる。イエスは唾と暴言で侮蔑され、コラールが「気高いお方が」と嘆く。
[ペトロの否認]ペトロはイエスの仲間だと見咎められて三度否定するが、鶏の鳴き声でイエスの予言を思い出して泣く。コラールが「主よ、わたしは過ちを犯しました」と彼の悔悟と反省を語る。
[ピラトの判決]翌日イエスはピラト総督の尋問を受けるが、ほとんど沈黙を守る。祭司長たちは群衆を扇動してイエスの磔刑判決を取り付ける。イエスは茨の冠を被せられるなど様々な屈辱を加えられ、コラールが人々のために身代わりとして罪をあがなうイエスに厚い感謝の念を捧げる。
[十字架上の死]イエスはゴルゴタの丘で十字架にかけられ、さらに侮辱を受ける。正午に全地は暗くなり、三時にイエスが大声で神に呼びかけると、コラールが「神は見捨てない」と応える。イエスが息絶えると、ソプラノのアリアが古い予言の成就を歌い、隊長は「神の子だった」と嘆ずる。
[墓葬]夕ベにヨセフが遺体の引渡しを願い、コラールは永遠の信仰を希う。埋葬後、最終曲の合唱が「わたしの命はあなたの死によって得られ」云々と、墓碑銘を反復唱和して全編を締めくくる。

(入澤三徳・会員)


プロフィール

ゲオルク・クリストフ・ビラー(指揮)
 10歳で聖トーマス教会合唱団付属トーマス学校に入り、徹底した音楽教育を受ける。1976年、ライプツィヒ音楽大学指揮科に進み、クルト・マズアはかに師事。このころから合唱グループを主宰し、ゲヴァントハウス管弦楽団などと共演し、歌手としても活躍。1992年、J.S.バッハから数えて16代目のトーマス・カントルに就任。1994年からはライプツィヒ音楽大学の合唱指揮科教授も兼任。バッハのカンタータを年代史に従って演奏するシリーズは注目を集めているが、レパートリーはグレゴリオ聖歌から現代作品までと広く、作曲活動も行っている。聖トーマス教会合唱団は彼の時代になって、フィリップスレーベルから5枚のCDを発表している。横浜合唱協会とは1990年ロ短調ミサ、1996年ヨハネ受難曲、1997年トーマス教会礼拝でのモテット演奏に続き4回目の共演となる。

フォルカー・ブロイティガム(オルガン/補筆部の作曲)
 1939年、ドイツ・フローナウ生まれ。子供の頃から現代音楽に親しむ。ドレスデン十字架教会合唱団員を経て、ライプツィヒ音楽大学研究者養成課程を修了。オルガンをヴォルフガング・シェテリッヒ、ロベルト・ケーブラーに、作曲をヴィルヘルム・ヴァイスマンに、指揮をクルト・トーマスに師事。作品は、福音書に基づくモテット、合唱またはオルガンのための定旋律編曲、子供の合唱のための音楽など、実際に使われることを考慮した教会音楽を主体としている。1976年の合唱曲『ライプツィヒ憲章』は、1999年に東京混声合唱団により本邦初演されている。1981年にJ.S.バッハの『マルコ受難曲』を補作。1981年以降、ライプツィヒ音楽大学、及びハレ/ザール福音派教会音楽大学にてオルガンと作曲法を指導。現在、同大学教授。オルガン奏者としても国際的に演奏活動を行なっている。

高橋節子(たかはしせつこ/ソプラノ)
 札幌大谷短期大学音楽科卒業。東京芸術大学音楽学部声楽科卒業、同大学院修了。芸大在学中の定期演奏会でハイドン『天地創造』のソリストに選ばれ出演。また、芸大バッハカンタータクラブに所属し、多くのカンタータを演奏。1990年度文化庁芸術家国内研修員。1992年、ドイツ・シュトゥットガルトでのバッハアカデミーに受講生として参加し、H.リリング氏指揮のコンサートにソリストとして出演。1993年、日演連推薦新人演奏会に出演。1993年から国際ロータリー財団奨学生として、ドイツ・フライブルグに留学。帰国後、日本声楽コンクールで田中路子賞を受賞。1998年、ドイツ・ライプツィヒ聖トーマス教会において、G.C.ビラー氏指揮バッハ『カンタータ44番』のソリストを務める。1999年、東京と札幌にてドイツ歌曲のリサイタルを開催。現在までに、藤田道子、戸田敏子、伊原直子、E.M.マイヤーオルバースレーベンの各氏に師事。

アレクサンドラ・レーゼラー(メゾソプラノ)
 ライプツィヒ生まれ。音楽の基礎とピアノをライプツィヒ出身のピアニスト兼作曲家アネリーゼ・ベッツに学ぶ。1988年、国立ドイツ古典文学研究所の“シラー賞”を最年少で受賞。“Jugend musiziert 若い演奏家たち”コンクールにおいて成功を収め、1992年からライプツィヒのフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽大学においてレギーナ・ヴェルナーに声楽を師事。またマグデブルグ大学において音楽教育の研鑽を積む。歌手として、またピアニストとして多数の演奏会活動を行い、現代音楽の解釈を精力的に行なう。1995年以降“ザクセンアンハルト音楽芸術の祭典”において活躍。また本日のテノールソリストであるマルティン・ペッツォルトのデュエットパートナーとして、フリードリッヒ・メッツラー作品の初演をライプツィヒオペラハウスにて好演。1998年からハレ市合唱団の合唱指導に従事。

マルティン・ペッツォルト(テノール)
 ライプツィヒ生まれ。聖トーマス教会合唱団員として音楽教育を受け、ライプツィヒ音楽大学にて声楽を学ぶ。1985年、声楽における国家試験合格の後、ハレ州立劇場と契約。また1988年にはライプツィヒオペラ劇場とも契約。『二ュルンベルクのマイスタージンガー』のダヴィット役、『後宮よりの逃走』のペドリッロ役、『鼻』のイワン役、『真夏の夜の夢』のフロート役など多数に出演。ベルント・ジークフリートのもとで更に研鑽を積む。オペラ部門で活躍する一方、聖トーマス教会合唱団とも密接な関係にあり、ボイストレーナーとして指導。他にゲヴァントハウス交響楽団、MDR、フライブルク・バロックオーケストラ・コンソートなどと契約。ヨーロッパ、アメリカ、イスラエル、日本など、国際的に演奏活動を行なう。2000年に入ってからはJ.S.バッハの音楽解釈のマスターコースでも活躍。

小原浄二(おはらじょうじ/バス)
 盛岡市出身。岩手大学卒業。東京芸術大学声楽科首席卒業。松田トシ賞受賞。同大学院独唱科修了。佐々木正利、伊藤亘行、多田羅迪夫、H.クレッチマールの諸氏に師事。在学中よりドイツリート、オラトリオを中心にソリストとして国内外で活躍。1991年ウィーン楽友協会ホールでのブラームス『ドイツレクイエム』、1993年ドレスデン・ツヴィンガー宮殿でのフォルトナー『ヘルダーリンの詩による歌曲』、1996年ミュンヘン・ヘラクレスホールでのニュルンベルク交響楽団定期公演、ヨゼフ・ツィルヒ指揮、ハイドン『天地創造』等は、現地新聞紙上等で高い評価を受ける。1992〜94年、バッハコレギウムジャパンのコーラスマスターを務める一方、ソリストとしも活躍。1994〜95年、ドイツ留学。1999年、横浜合唱協会第44回定期演奏会(J.S.バッハ『クリスマス・オラトリオ』)に出演。現在、高知大学教育学部助教授。高知バッハカンタータフェライン指揮者。


 以下の文は、栗原浩氏のレクチャー原稿からブロイティガムを評した部分を抜き出しました。なお、こちらの表現力不足もあり、HTML用に書式を変更しております。あしからず。


J.S.バッハ「マルコ受難曲」の復元と補作

栗原浩

4章

 フォルカー・ブロイティガムによる補作(1981)作曲家ブロイティガムが書いたこの作品の表題は

<J.S.バッハのマルコ受難曲> *1.
  に付けた
<福音書の音楽> *2.

である。

Evangelienmusik*2.
  zu
Johann Sebastian Bachs
 Passions Music nach dem Evangelisten Marco.*1.
              Volkar Bräutigam 1981

 この標題は、すでに2つの異質の部分が並存することを語っている。

*1.<J.S.バッハのマルコ受難曲>部分

 音楽は上記III.2.4.1(1)項に述べたディートバルト・ヘルマンの復元版を用いる。従ってテクストはピカンダー、すなわちバッハ時代のドイツ語で歌われ、合唱、独唱およびオーケストラによってバロック音楽が演奏される。この部分の標題にドイツ語の古い綴字"Music"と"Marco"が用いられているのも意図的なものと考えられる。

*2.〈福音書の音楽>の部分

 現代ドイツ語訳のマルコ福音書をテクストとしてブロイティガム氏が作曲した現代の音楽。この部分の標題は現代風の綴字"Musik"で書かれている。
 受難章はピカンダーのテクストと同じ箇所を用いるが、枝葉にわたる細部を省略し、強調したい挿話は残して簡潔に編集されている(ピカンダー:約2340語、ブロイティガム:1985語)。このテクストはプログラムの歌詞対訳を御覧いただきたい。
 伴奏はオルガンと打楽器がときには不協和音、またときにはトーンクラスターなども駆使し、打楽器の乾いた響きと共に情景を描写する。

(1)福音史家(エヴァンゲリスト)

 i)物語の報告部分

 グレゴリオ聖歌以来の伝統的な詩篇朗唱調(同じ音程で流れるように語る)によってテノールが淡々と物語る。

 ii)緊迫した場面の報告

 レツィタティーフであるが、語られる内容に応じて音の動きが激しく、リズムも複雑となって伴奏楽器と共に切迫した雰囲気を表わす。

(2)イエス(バス)

 語る内容に応じて変化するレツィタティーフ。

(3)個々の人物(ペテロ、ユダ、ピラト等)および
   合唱(弟子たち、ユダヤ人たち、兵士たち等)

 切迫した場面で短い発言をもつことが多く、単声、2声またはそれ以上の声部が1つまたは2つの音符、或いはシュプレヒコーア風の表現で即物的に訴えかける。前述のオルガンと打楽器の表現と表裏一体であることは言うまでもない。

 恐らく作曲家の意図は、言葉と音楽の両方の面でバロックと現代を向き合わせ、これを空間的な配置の助けを借りて(東京の劇場構造の中でどこまで成功するかわからないが)、聴覚と視覚にも訴えながら提出した1つのメッセージであると思われる。一これはバッハの重い伝統を担うライプツィヒの音楽家が、ルター神学の根底にあるイエスの十字架の問題との、現代における関わりについて提出した1つの提言なのである、と。
 この音楽は東西ドイツ統合以前、1981年に書かれたものであることも考えておくべきであろう。